自分を殺して生きることに精一杯だからさ

 ツイートでもブログ記事でも書いては消してを繰り返している。見返したときに、どれも自分の言葉に感じられなくなるのだ。人の目を気にしているからなのか、他の誰かになりすましたような自分が必ず存在する。そしてそれに少し慣れた私は、こういう話をしたらウケるということぐらいは分かってしまっている。個人間のやり取りでさえ、文を送ったそばから、他の誰かが私の代りに文字を打っている気分になる。違う、違うんだ。これは私の言葉じゃない。

 多方面に現れる自分に対するプライドが高い。客商売をやる以上、自分が一番客を呼べなくてはならない。お姉さんである以上、頼れるお姉さんであり続けたい。院生である以上、最低限の業績ぐらいは重ねないと研究者なんて名乗ってはならない。誰かが私をお母さんみたいだという、誰かが私を妹みたいだという、誰かが私を何でも話せる友人であるという。そういった役割期待に対応していくことが私のできることでもあり、得意なことでもあるのだとは思う。

 どの方面においてもちょっとうまくなってしまった。相手の求める私を察して先回りしてその私を提供することが下手ではない。そうするとどうなるかって、私は私の言葉を失いつつある。よくいえば、社会性を獲得するとはそういうことなのかもしれない。

 その一方で、自己肯定感なんてゼロどころかマイナスなのではないかとよく思う。そもそも私の自己はどこにあるのかという話だが、今まで何一つ誰かの為にできたことはないし、自分の努力で何かを達成できた試しもない。周りの人間はすごいよ本当に。私の愛情くらいでプラスに作用するのなら、無限に注いでいいと思う人間ばかりだ。私は他の誰かの役割を借りないと何一つ自分であることはできない。結局、私はこの世界のどこにもいやしないのだとも思う。私はいない。

 唯一私を見つけてくれたのは今の恋人だった。見つけてくれたのか見つけてくれたようなフリかは厳密には分からない、どっちでもいい。私がそう感じたこと自体に素晴らしく価値がある話だ。初めて出会った瞬間のあの衝撃はきっと、一生忘れないからもう十分だ。私の物語を書き続けている作家がいて、ちょっと流れに飽きて彼を私の目の前に登場させて化学反応のようなそれをみたくなったのだろう。超自然的である意味では、不自然な、そんなタイミングだった。

 この間、その彼が今まで交際した女の子の顔の話をしていた。要するにずっと似たような顔だということだ。そういえば、初めて会った頃も、初めて抱いた子と似ているとかそんなような話をしていた。そうか、似ているのか。納得した私はうまく言葉が出なかった。きっと過去の誰かの代りのほんの一片でも私は担っているのかもしれない。彼から見えているのは私そのものではなく、誰かに似ている私だ。そのように考えたら、幸か不幸か私の適職とでもいえてしまう。

 自己肯定感が著しく低い私が自己を維持できるのは、結局他の誰かの役割を担うことである。有能な保護者としてか、落ち着いたお姉さんとしてか、癒しを提供する媒体としてか、もうなんでもいい。役割さえ与えられたら、そこへ向かうプライドだけは高い。

 私はそうやって、相変わらず毎日自分を殺して殺して殺している。こんなんじゃその役割は十分に務まらないぞ、と。そう、私は自分を殺すことに精一杯で、私は毎日忙しいのだ。「忙しい」か、心も既に亡くしているのかもな。忙忙忙

 そうやって、自分を殺して強く生きねばならないんだよ。生き残りへの戦い。