地球の怒り。

ここ数日の天気の荒れ、環境の荒れはもっぱらタダ事ではない。

 

私は京都に住んでいるのだが、突発的に地震が襲い、落ち着いたと思ったら大雨で休む間もなく警報が鳴り響き、今日は気象災害と呼ばれるほどの猛暑。

朝からニュースを眺めていると、「被災地」「ボランティア」というワードが溢れている。ああそうか、毎日繰り返しの日常を過ごしているだけの場所が、その一瞬で「被災地」となってしまう…

広島、岡山では今度はボランティアに来た人たちが熱中症にならないようにと、対策が呼びかけられているようだ。こんな時にでも、もちろん私は全く無力だ、使い物になれはしない。ましてや、善意で尽力できる人たちもまた、その手を阻むような状況である。何とも、厳しい仕打ちだ。

 

資本主義が正義の座を勝ち取り、人類は経済成長の為に自然を、環境を、散々に食い物にしてきた。ついに、その反逆が一気に人類を襲っているのではないのだろうか。地球の怒りであり、嘆き、悲鳴のようだ。

一先進国日本に住んでいる人間としては、そのようなことを感じせざるを得ない近年の悲惨な事態である。

 

今日はここ数日でまとめていたゼミでの発表レジュメを仕上げながら、この研究に何の意義があるんだ。何のためになるんだ、そんなところを考え出すと、もう少し広い知見というのか、big picture を描けるようなところを忘れてはならないなと、ついついちっぽけな自分一人で実現できそうにもない大きいことを考えてしまうものである。ああこんなことやっても何もならないじゃないかと…。

 

ただ、これだけは分かる。

 

考えることを辞めてしまったら何にも変わらない。微々たる可能性を少しでも産まなくてはならない。少なからず私はそう思う。社会学的な視点に立つ良さの一つは、人間が抱いている自明性を問い直すようなあたりである。考え方や視点一つのことで、不必要に苦しんだり悩んだりする人間があまりにも多いのだ。そんなことくらいで人間が貧弱になっている場合ではない。

おそらく、この地球の怒り、反逆はこれからも続いてゆくし、加速していくであろう。人類はどう立ち向かうか、どう生き残っていくのか。これは本当に考えるべきなのではないか。地球のため、環境のためなんていうたら、正直人類は滅亡した方が早い。そうではなく、どのようにお互いに過ごしやすく、共に生きていこうか。そんなところか。

 

だらだら書いていたら、何だかESDの理念みたいな話だ。持続可能な開発のための教育の必要性。結局あれほどの提唱がなされているのに、これほどに一般化されて浸透されていないということは、やはりそうゆうことなのだろう…難しいものだ。