かわらないもの、かえられないもの

彼女が亡くなってからの私は、自分が見えている世界と自分が生きていることに対して自明性を失っていた。自宅に篭り続け、ただ時間が経って1日が終えるのを待っていたようだった。人が眠るべき時間に寝れなくなり、夜更かし、さらに長引き朝になってようやっと少し仮眠をとって、昼前に目覚め、またぼんやりと夕方と夜を迎え、何にもない時間の経過を追っていた。外が暗い時間はだいたい目に涙が浮かぶし、思考も回らなかった。部屋が散らかるようなこともしないし、また、片付けようともしない。時間の経過に取り残された私がいた。

ただ、「私以外」の「私の役割」は変わらず機能している。大学に出向けば「大久保さん」だし、学校の仕事に入れば「先生」であるし、りぼんに行ってお店に出れば「りぼんのはるかちゃん」だし、両親に顔を合わせれば、「一人娘の遥」であるし…友人として、恋人として、先輩後輩として…そこぞこの役割が与えられている限り、そのような大久保遥として生かされ続けている。そして、これは大変にありがたいことであった。おかげで、今日も変わらずに社会は動き続けているんだってことが、とてもよく分かった。そう、何があろうと何を思おうと、泣こうが笑おうが喚こうが、当たり前の顔して世界は動いている。

 

 

今日は彼女の自宅にお邪魔した。そしてそのために帰省したのも、親には見抜かれていたようだった。私は彼女や遺族の方に顔を合わせるという名目のもと、自分を分からせるために来たのだと思う。つらさに立ち向かおうとかいう挑戦的なそれではなく、人として、事実をできる限りそのまま受け止めたいという欲求がある。ただ、私は世にはびこる不幸や不満、生きづらさは、捉え方一つで変えられることができるという信条のもと生きてきた。そしてそれは、人文系の学問が人々に貢献できる一つの大事な役割であるとも思っている。しかしながら、当然のごとく、事実は何にも変わっていなかった。彼女の時間は止まったまま、決して二度と動きはしない。どんな解釈や意味づけを試みたとしてとも、この事実だけは決して変えられない。それはとてもよく分かった、よく分かっている。

 

私はただただ、悲しくて、虚しい。