消費される着物文化

観光客の増加に伴い、京都の街中ではあちこちでレンタル着物屋さんがOPENしている。

夏の季節である今であると、そこらじゅうに浴衣姿の人たちで溢れていて、キラキラしたような雰囲気が漂っている。

そんな光景を話していて、同級生の男の子が「タダで浴衣女子を見れるから得した気分になる」といったようなことを言っていたが、どうもわたしには納得のいかないところがある。

なぜって、どこをみても派手めな色合いで薄っぺらい生地、季節感のない花柄、作り帯…。決して和装をする上では美しいとは言えないような代物を身にまとっている子達がとても多い。(むしろ、その子自身の私服の方が似合って可愛いんじゃなかと思ったりもする)

最悪なパターンは、もう寒い時期なのに浴衣を着ていたりさえする。

 

結局、この一連のブームを支えているのは、「着物を着る」という行為自体への普及であって、決して「着物文化」が広まったからではない。

だって、あくまでレンタル着物店は着物文化を「消費財」として成り立たせているビジネスモデルでしかないのだから。

「着物を着る」という行為を供給するのに、「安く」「手軽に」「早く」といった需要を満たしているし、もっというと、「着物を着て可愛い」という状態に「わかりやすく」持っていっている。

 

この「わかりやすい可愛さ」というのは、最初に述べた花柄であったり、派手な色使いといったものだ。そのまま浴衣だけパッと見て可愛いと思える仕掛けだ。

でもよくよくその姿を見て欲しい。

 

若くて可愛らしい女の子が着ている賑やかで可愛らしい柄と色合いの浴衣は、かえって全体のバランスを悪くしていることが多い。

 

和装に限っては、「若い時ほど渋いモノ、年をとるほど可愛らしいモノ」が似合うのだ。それでも、「いや違う」というのなら、わたしは間違いなくあなたのセンスを疑う…

 

本来、柄一つとっても着物というものはその人の自己表現そのものになり得る。

例えば、わたしはこの間、水トンボの柄の白い涼し気な浴衣を着た。

トンボは、前しか見えず、後ろを振り向かない、前進していくようなところから「勝虫」といわれている。今のわたしの気持ちそのものである。

ただ、7月はちょっと早いかなあ、といったところ涼しさを入れるのに、薄い色に水トンボが丁度良い、といったところ。

帯を合わせるのでも、シックな青であれば落ち着いた印象になるし、ちょっと柄が付いた赤であれば粋な感じもする。着て行く場所、その時の気持ちでいくらでも合わせ方がある。

 

これ語り出すと長くなるので…これくらいにしておき…

 

さて、実際にレンタル着物店で浴衣を着ている人たちを見ると半数近くは外国人観光客が見受けられる。

わたしがとても残念に感じてしまうことが、その彼らが「日本のKIMONOってこんなものかあ」という印象を持って帰国してしまうことである。

きっと、暑苦しく身動きとりづらく厄介なモノといった印象の方が強いだろう。その隠された奥深さといったような日本らしさに触れることはないように思う。

 

そもそもだ。

 

日本人自体が着物文化を消費財にしてしまっていることを、どうにか改めたい。

せっかく、関心は継続されてというか高まってきているのだから…

 

街中には可愛らしい美しい女の子がたくさん溢れているのだし

 

彼女たちにはやはり、日本人としてのプライドを持って、着物を身にまとってほしいなあ、という思いがある。