好きな会話

自分をとりまく環境を振り返ってみると一週間のうちに会話をする相手の幅がとても広い。
 
年齢でいうと、読み書きを覚えたての小学生から、言葉を忘れ始めたお年寄り
学力でいうと、偏差値上の上に君臨する学生から、偏差値という意味さえ危うい学生
職業でいうと、現実的数値にこだわる技術者から、現実から非現実への橋渡しをする芸術家
土地でいうと、狭いコミュニテイーで地域に根付く田舎人から、広いコミュニテイーで孤独に浸る都会人
 
いろんな背景を持った人間と会話を成立させるというのは、私にとってそう容易ではない。とてもよく頭と気を使う。
けれども、私という人間が「どこにも大きく属さない」部類に存在しているからこそ、それぞれの繋ぎの役目をすることはそこそこ需要があるように思し、一つの自分の任務だと勝手に思っている。
 
この過程でやる仕事は、相手にとって一番腑に落ちる言葉を選び、組み立て、話し方を考える。一日本語を一日本語を持って翻訳するような作業だ。
 
それでもやはり、自分が話していて一番心地よい相手というのは必ずいる。(おそらく誰にとってでも)
 
それは、「本質を言わずして本質を通じ合える相手」だ。
 
本質をそのまま言葉にすることは、確かに誤解は生まれにくい。
しかし、「なんか違うな」という含みは必ず残しつつも言葉を発する。
そうすると、その言葉の絶対性の強さに押され、その含みを薄なった単調な表現となってしまう。
 
けれど、本質をなぞる輪郭や、近しいもの、それを匂わせるようなものを伝えるだけで
かえって、こちらが意図した本質を受け取ってくれる相手が稀にいる。
 
もちろん、人間が違うのだから、生まれ育った背景も、人生で経験してきたことは全く異なるだろう。
 
しかし、間違いなくその相手とは感じ方が捉え方が似ている。
もっというと、五感の反応するところが似ているのだ。
 
だから、会話ができる相手と相性が良いというのは嘘ではない。
目の前にいる人にあわせて相手が好む会話をできる人間が男女問わずモテるのも説明がつく。
決して同室でなくても、共感するのが人間はだいたい好きだ。
 
自分が好きな会話ができる相手を大事にしたいものだし、
自分は相手にとってそうであるように努めたいとも思う。