大人になる

成人の日ということで、「大人になる」ということについてちょっと話しましょう。

 

つい先日、塾の小学1年生の生徒に「先生は大人なん?」と聞かた。22歳である私は、20歳が成人と定めている日本の決まりに従えば、大人であると説明した。

 

頷いたものの、腑に落ちない生徒。私自身も説明語句だけ並べて、内実いや違うなと、思わんばかり。

 

確かに、20歳にもなれば身体機能はある程度の成長が満たされる。

 

 

 

けれども、その外面的な見解は置いといて、内面での「大人」ってなんだろう。

 

一般的には、他者と協調できず、自己中心的なワガママばかり言い放てば「まだまだ子供だね」と、ふるまいの面だったり、いつまでも親の脛かじってばかり、経済的自立ができないと、まだまだ子供のようであるかもしれない。

 

要するに、「社会性」の有無は一般的に大きなポイントかもしれない。

 

私としては、それに加えて「自己責任」を持つこと・持てることが重要な鍵であると思う。

 

子供であるうちは、責任は親にある。

 

義務教育なんかは、分かりやすい例だ。親に対し、子供に「教育を受けさせる義務」があり、その子を社会に生きる大人に向けて成長させるのは、親の一つの役目とされている。子供の選択権を親が握っている状態である。

 

また、その子が非行や不良に走ったとしたら、それはそれはその子自身の責任だけではく、親の不届きにも値するため、保護の対象となる。

 

このように、子供であるうちは、まだ親の元に守られている状態である。(これを前提として例外省く)

 

一方、大人であるということは、その子自身に、自分の人生についての選択権がある。そして、それには自己責任が伴うべきである。

 

「親がこう言ったからこうした」というのは、本来こどもである時分に許される論理である。責任を他者に委ねていいのは、その保護下にある時である。

 

さらに踏み込んで、内田樹の『大人のいない国:成熟社会の未熟なあなた』文春文庫(2008)の議論を引っ張ろう。

 

ここでは、日本国民全体の「幼稚化」を訴えている。社会に対する不満を誰もが誰かのせいにしている。「クレーム」を発することで自己正当性を帯び、権威を主張しているかのようになっている。(だいぶ昔に読んで細かい内容忘れたが、オトナであるなら読むべき一冊)

 

「こんな日本のせいで自分はこの境遇に陥ってしまった」と。「政府が悪い」「社会が悪い」…

 

結局、不満を言ったり、何かを非難することは簡単なのだ。

それでいて、あたかもそれが「正しい」ように思えるから、こんなにも「クレーマー大国」となってしまった。

 

そして、鋭い(鋭そうに見える)批判こそ、メディアを掻き立て、国民を盛り上げる。

「オカシイ雇用状態」「学校現場の失態」…

 

そして、悲劇のヒロインこそが騒がれる世であるのは間違いない。

自分が被害者であるという現実に着地する。

 

しかし、自分が生きている社会は自分がつくっていくものである。(当然のことだけれど)

 

大人になるということは、自分自身に対する自己責任を持つのは当然、社会の一構成員としての自覚と責任を持つということも必要である。

 

あの先輩がこうだから悪い。あの上司がこのようなことをするから良くない。システムがこうだから上手くいかない。

 

問題を見つけて、非難批判するのはたやすいことである。

 

大人であるなら、解決策を考えなくてはならない。

 

その問題を自分のことにように落とし込んでいく作業こそ、大人な対応であると思う。

 

もっと親しみやすい例を出すと、恋愛関係なんかそうだよね。

言いたいこと(ワガママ)の言い合いって、ケンカばかりするのは子供な付き合いだけれど、言いたいことを聞き合って、相手のことを自分のことのように落とし込んで考えて解決していくのが、大人な付き合いね。

 

ちょっと、話題は逸れましたが…

 

結局、大人と子供の違いって生きてる世界の枠組みが違うわけで

 

自分だけの世界の中に守られて生きるのか、社会という広い世界で一個人として自立していくことなんじゃないかな。

 

(実際、20歳であっても学校に通って、学生やってたらまだまだ子供だよなあ。)