綺麗なお姉さんと下品なおじさんの組み合わせ。

夜のスーパーにて。

 

手足がスラーっと長いモデルさんみたいな綺麗な外国人のお姉さんがいた。金髪が決して浮くことがない、目鼻立ちくっきりの顔立ちだ。使う日本語もまた上品。

 

その横でごちゃごちゃ小言を吐く男性。少しお酒が入っているのか、赤く染まる顔にシワが寄ったシャツ姿。はっきり何を言っているのか分からなくとも、汚い日本語を使っていることは伝わってくる。

 

レジに向かうカゴはお姉さんが持ち、その品々は全てそのおじさんが言いつけたもの。支払いはお姉さんが済ませ、袋に詰めるのもお姉さん。おじさんは荷物も持たずさっと先に店を出る。後を追うお姉さんの細い指には思い荷物が預けられ、二人は夜道に消えた。

 

人気のない路地に入り、おじさんはお姉さんの手をガチッと握る。

 

 

 

 

社会的な強者・弱者がそのまま現実に実在する(しているような)現場って、たいがい「見なかったもの」と無意識に位置付けられてるんだろうなあ。

 

人々の「日常」が、なんだって溶かしていくもの。

 

不信は何から生まれるか。

 

不信は何から生まれるかという答えはいたって簡単、「信じる」ことである。

 

「教育不信」に関して、広田の考えを借りるのならば、それらは皆「教育に過剰に期待し過ぎている」のだ。

 

学校教育は子どもに対してあらゆる手ほどきができる、と信じ込んでいるからこそ、できないことに関して強く当たるのだ。さらに言うと、教育に対し不満が多い人ほど、教育に対しの期待が大きいのだ。

 

別に教育だけの話ではない。

 

「男性不信」とかその類もそう。

 

男性に対し理想を掲げ過ぎていて、「男」の本来の部分が見えた瞬間に「男性不信」だというようになる場合が多い。逆も然り。

 

そうか、ならば「信じるな」と言っているわけではない。

不信感や不満の出発点を見つめ直して欲しいという意図である。

 

あたかも前提のようにあるものが、実は一方的な「思い込み」ではないか。

相手に不平不満を嘆く前に、まずは自分を振り返るのも必要な作業ではないかと私は思う。

 

広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊国屋書店、2005

また一つ明かりが消えたなら

 

夜の街は その寂しさを埋めるように 明かりを持たせなくてはならない

 

 

祇園花見小路通り沿いに「ミラノ」というお店があった

名前の通り、イタリアを思い浮かべさすような風貌

古びた店内 和製的な西洋を感じさせるふかふかの大きいソファ

時代に似つかわない雰囲気が 夜の街にはぴったりで

 

仕事を終えたきらびやかな女の子たちが集い

さっきまでお店で見せていた華やかな仮面を外し 一息つく

 

また1日仕事を終えた安堵感と 終わりが見えない世界に残る特有の虚しさ

 

それを気持ちばかり受け止めてくれる場所だった

 

 

けれども、その場所も昨年明かりを消してしまった

 

 

彼女たちに溜まる夜の余韻を 何処に沈めたら良いのだろう

 

また一つ明かりが消えたなら 暗さで 残された寂しさも 見えなくなってしまう

 

強いからこそ優しい

 

他人に対しての優しさをもってる人はそれだけ強さをもっている。

 

別に優柔不断で流されるわけでもない。

 

 

強さが前面に出ちゃってる人ほど、器が小さかったりする。

 

本当に優しい人は本当の強さをよく知っている。

若者であるということは。

”犬でも豚でも牛でもみんな同じだが、子供の頃は遊ばせて貰える。北京料理仔豚の丸焼きに使われる仔豚は別だが。成獣の一歩手前で、選別があり、分類される。高校生もそうだ。高校生は、家畜への第一歩なのだ。”村上龍69 sixty nine』文春文庫、2014)

 

誰だって、オトナが差し出す道標に違和感を感じる頃があったのではないかな。

 

それでも、経験値が足りない自分に十分な反論の余地はなく、半分だけ承諾したうちに、自分の中に取り込んでいく。

 

歳を重ねていくうちに、その世界に馴染んでいき、その時の違和感すら感じなくなる。もしくは、無視したまま、無かったことのようになる。

 

反抗心を抱くことこそ、若者である特権であり、必要なことであるように思う。

 

ただひたすらに順従であるのは、扱いやすいかもしれない。

 

ただし、新しいものは何一つ生まれないし、社会の現状維持すら危うくなるだろう。

 

村上龍が多才な小説家に至った背景が、とても納得いく。

画一的な教育やシステムの中では、個性を持ったアーティストは生まれない。

 

当然のことだけれども、学校という大きい箱にいるうちは見えづらい。

 

次世代を担う若者、高校生なんかは気軽に手にとって欲しい一作。

 

 

個人的に、村上龍小説に期待した、身体がゾクゾクする感じは得られないなあと読み進めていたけれど。

実話と聞いて、かえって村上龍自体がもっと好きになったかな。

大人になる

成人の日ということで、「大人になる」ということについてちょっと話しましょう。

 

つい先日、塾の小学1年生の生徒に「先生は大人なん?」と聞かた。22歳である私は、20歳が成人と定めている日本の決まりに従えば、大人であると説明した。

 

頷いたものの、腑に落ちない生徒。私自身も説明語句だけ並べて、内実いや違うなと、思わんばかり。

 

確かに、20歳にもなれば身体機能はある程度の成長が満たされる。

 

 

 

けれども、その外面的な見解は置いといて、内面での「大人」ってなんだろう。

 

一般的には、他者と協調できず、自己中心的なワガママばかり言い放てば「まだまだ子供だね」と、ふるまいの面だったり、いつまでも親の脛かじってばかり、経済的自立ができないと、まだまだ子供のようであるかもしれない。

 

要するに、「社会性」の有無は一般的に大きなポイントかもしれない。

 

私としては、それに加えて「自己責任」を持つこと・持てることが重要な鍵であると思う。

 

子供であるうちは、責任は親にある。

 

義務教育なんかは、分かりやすい例だ。親に対し、子供に「教育を受けさせる義務」があり、その子を社会に生きる大人に向けて成長させるのは、親の一つの役目とされている。子供の選択権を親が握っている状態である。

 

また、その子が非行や不良に走ったとしたら、それはそれはその子自身の責任だけではく、親の不届きにも値するため、保護の対象となる。

 

このように、子供であるうちは、まだ親の元に守られている状態である。(これを前提として例外省く)

 

一方、大人であるということは、その子自身に、自分の人生についての選択権がある。そして、それには自己責任が伴うべきである。

 

「親がこう言ったからこうした」というのは、本来こどもである時分に許される論理である。責任を他者に委ねていいのは、その保護下にある時である。

 

さらに踏み込んで、内田樹の『大人のいない国:成熟社会の未熟なあなた』文春文庫(2008)の議論を引っ張ろう。

 

ここでは、日本国民全体の「幼稚化」を訴えている。社会に対する不満を誰もが誰かのせいにしている。「クレーム」を発することで自己正当性を帯び、権威を主張しているかのようになっている。(だいぶ昔に読んで細かい内容忘れたが、オトナであるなら読むべき一冊)

 

「こんな日本のせいで自分はこの境遇に陥ってしまった」と。「政府が悪い」「社会が悪い」…

 

結局、不満を言ったり、何かを非難することは簡単なのだ。

それでいて、あたかもそれが「正しい」ように思えるから、こんなにも「クレーマー大国」となってしまった。

 

そして、鋭い(鋭そうに見える)批判こそ、メディアを掻き立て、国民を盛り上げる。

「オカシイ雇用状態」「学校現場の失態」…

 

そして、悲劇のヒロインこそが騒がれる世であるのは間違いない。

自分が被害者であるという現実に着地する。

 

しかし、自分が生きている社会は自分がつくっていくものである。(当然のことだけれど)

 

大人になるということは、自分自身に対する自己責任を持つのは当然、社会の一構成員としての自覚と責任を持つということも必要である。

 

あの先輩がこうだから悪い。あの上司がこのようなことをするから良くない。システムがこうだから上手くいかない。

 

問題を見つけて、非難批判するのはたやすいことである。

 

大人であるなら、解決策を考えなくてはならない。

 

その問題を自分のことにように落とし込んでいく作業こそ、大人な対応であると思う。

 

もっと親しみやすい例を出すと、恋愛関係なんかそうだよね。

言いたいこと(ワガママ)の言い合いって、ケンカばかりするのは子供な付き合いだけれど、言いたいことを聞き合って、相手のことを自分のことのように落とし込んで考えて解決していくのが、大人な付き合いね。

 

ちょっと、話題は逸れましたが…

 

結局、大人と子供の違いって生きてる世界の枠組みが違うわけで

 

自分だけの世界の中に守られて生きるのか、社会という広い世界で一個人として自立していくことなんじゃないかな。

 

(実際、20歳であっても学校に通って、学生やってたらまだまだ子供だよなあ。)

 

 

 

 

 

物書きであるということ。

 

物書きであるということに権力は必要ないが、権威が帯びる可能性は孕んでいる。

 

大衆社会の、たった一個人が発信した情報が社会を震わせ、多大な影響をもたらす。

そこには、権力も教養も必要ない。

その情報一つが抜粋され、受け手もまた、拡散を促す。

 

一昔前ならば、物書きには権力も教養も必須であった。

国民識字率が不完全であるが故、当然のことであるが。

文学は上流社会の産物であり、近代化していく中での情報は、権威者のみ握っていた。

受け手は、知らずのうちにその権力に取り囲まれるわけであった。

 

だからといって、今が完全に自由で平等なわけではない。

 

ネット中の溢れんばかりの情報に惑わされ、一見大衆化したように見える。

けれど、受け手は無意識的に情報を選択し、わずかの情報量で欲求を満たしている。

自分の知りたいものだけを享受し、自分の知っている範疇の世界が完成する。

 

物書きは受け手の知りたいことだけを伝えるのが役目ではない。

 

大事なのは「気づき」を与えられるということだと思う。

読者の目にしたことない知らない世界を、想像を通じ伝えること。

 

発信者が意図した着地点にたどり着く必要はない。

受信者の中で、新たな道筋が生まれることに意義がある。

 

物書きには、個々人の世界に新たな芽をつける役目がある。

 

小さくても良いし、少なくても良い。

 

 

 

数年間閉鎖していたブログ更新、再始動。