勉強をサボったらああなるのよ

先日、工事現場で働く方から、誰もが一度は経験する「現場あるある話」を聞いた。

 

小学生くらいの子を連れた母親は、汗水流し働く自分たちを指差して「勉強をサボったらああなるのよ、だから勉強しなさい」と、我が子に向かって諭すということがよくあるらしい。

 

幼な心に耳にする母親の言葉は絶対であり、少なからず子は母親に認められようと成長する。「何のために勉強するか」という問いには、いつしか「自分が社会の敗者にならないため」という絶対的な答えが正当化されてしまう。

なんて身勝手で傲慢な考え方なんだろうか。何しろ、自分を包摂している社会の基盤を真っ向から否定した上で、かつ他者から優位に立つこと、他者を排除することを正義としている。

 

自分たちが「社会に生かされている」ということをもっとよく知るべきであるし、母親は次世代を創造する子どもにそれを教える義務がある。

 

こういう親たちがいるからこそ、非人間的な頭でっかちが育ってしまうのだ。

コンビニ化する人たち

コンビニ化の批判ってたくさん出てきているし、その現象もとてもわかりやすい

 

早く 簡単に 気軽に 24時間 利用可能 

 

ここら辺を押さえておけば、もうそれはコンビニ化だとみなすことができよう。

 

例えば人とのコミュニケーションでは

 

直接会って話そうとすると

予定をあわせて ある程度じっくり時間を設けて 相手の顔を見ながら言葉を選んで会話をし 限られた時間と場所を選ばなくてはならない

 

でもLINEなんかであると

いつでもどこでも 相手の都合を考えずに 気軽に 短文のメッセージでやりとりができる なんてコンビニエンスなんだ と思う

 

でも私は自分自身もまた、コンビニ化してしまっていることに嫌悪感を覚えることがある。 

 

私は実質24時間気軽に連絡を取れ、要請を受ければすぐに出向くし、大概の仕事は即答で引き受ける。余計な干渉はしないし、軽い返事を出す。

 

相手にとってはとてもコンビニエンスな状態であるとは思う。

 

けれどもそれはある意味で消費財にもなりかねない。

 

だから本当に大事な相手に対しては便利さや手軽さよりも重みや充実さを持たすようにしようとつくづく思う。消費されるよりも重宝される人間こそが本来目指すべき姿かもしれない。

好きな会話

自分をとりまく環境を振り返ってみると一週間のうちに会話をする相手の幅がとても広い。
 
年齢でいうと、読み書きを覚えたての小学生から、言葉を忘れ始めたお年寄り
学力でいうと、偏差値上の上に君臨する学生から、偏差値という意味さえ危うい学生
職業でいうと、現実的数値にこだわる技術者から、現実から非現実への橋渡しをする芸術家
土地でいうと、狭いコミュニテイーで地域に根付く田舎人から、広いコミュニテイーで孤独に浸る都会人
 
いろんな背景を持った人間と会話を成立させるというのは、私にとってそう容易ではない。とてもよく頭と気を使う。
けれども、私という人間が「どこにも大きく属さない」部類に存在しているからこそ、それぞれの繋ぎの役目をすることはそこそこ需要があるように思し、一つの自分の任務だと勝手に思っている。
 
この過程でやる仕事は、相手にとって一番腑に落ちる言葉を選び、組み立て、話し方を考える。一日本語を一日本語を持って翻訳するような作業だ。
 
それでもやはり、自分が話していて一番心地よい相手というのは必ずいる。(おそらく誰にとってでも)
 
それは、「本質を言わずして本質を通じ合える相手」だ。
 
本質をそのまま言葉にすることは、確かに誤解は生まれにくい。
しかし、「なんか違うな」という含みは必ず残しつつも言葉を発する。
そうすると、その言葉の絶対性の強さに押され、その含みを薄なった単調な表現となってしまう。
 
けれど、本質をなぞる輪郭や、近しいもの、それを匂わせるようなものを伝えるだけで
かえって、こちらが意図した本質を受け取ってくれる相手が稀にいる。
 
もちろん、人間が違うのだから、生まれ育った背景も、人生で経験してきたことは全く異なるだろう。
 
しかし、間違いなくその相手とは感じ方が捉え方が似ている。
もっというと、五感の反応するところが似ているのだ。
 
だから、会話ができる相手と相性が良いというのは嘘ではない。
目の前にいる人にあわせて相手が好む会話をできる人間が男女問わずモテるのも説明がつく。
決して同室でなくても、共感するのが人間はだいたい好きだ。
 
自分が好きな会話ができる相手を大事にしたいものだし、
自分は相手にとってそうであるように努めたいとも思う。

タバコをやめた男

私と恋人としての交際が始まった瞬間、タバコをやめた男がいた。
 
私は何もタバコを吸う彼を嫌いではなかったし、彼の健康を思ってやめさせようとした訳でもない。
 
 
ただ、彼は「タバコを私のためにやめる」と宣言をし、
 
あれだけ毎日口に含んでいたタバコを突如ピタッと手放した。
 
 
今思えば、彼は単にやめるキッカケが欲しかっただけだったのだと思う。
 
それを「自分のため」ではなくほかの「誰かのため」とした方が都合よく事を進める事ができたのだろう。
 
 
それとは同時に、彼は交際をキッカケに「変わった自分」を手に入れたかったとも考え得る。
 
その分かりやすい変化が、彼にとっては「タバコを吸う自分」と「吸わない自分」であったのだ。
 
 
そして、おそらくその彼は、今頃何事もなかったようにタバコを口にしているに違いない。
 
 
 

本当は一番大事に守っていかなきゃいけないこと。

 

人間は思っているよりずっとずっと弱くて、脆い。

 

ちょっとした衝撃で身体機能がうまく働かなくなっちゃうし

ちゃんと管理していても病が発生したりする

 

生命が日々持続して機能しているって奇跡的な事に対してほとんどの日本人は無自覚だ。

 

当たり前のように「未来」が存在する人生を考えていて

当たり前のように「将来」の為に努力を惜しまない

 

でもそれって「今を生きていること」の実感を失わせる危険性がある。

 

実際「未来の自分」のために「今の自分」を苦しめるために生きるという、本末転倒な起こっているのも事実だ。

 

「過労死」なんかに至らしめるのも、きっとそんな人間の「生きている」ということに対する無頓着さが生み出したものだろう。

 

過剰な労働は忍耐や努力といった綺麗事で語られるものでは決してない。

これは圧倒的な「生きる」に対する想像力の欠如に起因している。

 

「生きる」のは複雑な要因がそれぞれに条件を満たし、やっと可能なのだ。

そのことに対する意味づけを誤ってはならない。

 

儚くて脆くて 簡単に壊れてしまうから

大事に、大事に 守っていかなきゃいけないんだ。

 

自分のも隣の人のもね。

だって私の人生語呂合わせなんだもん

私の色恋沙汰が盛んだった頃の話。
 
 
 
「まさきさん」に別れを告げた後に、「まさきくん」という子から交際の申し入れがあった。
 
「坂口くん」に惹かれ始めていた時に、「坂口さん」と一夜を過ごした。
 
「なおやくん」から数年ぶりの連絡があった夜に、「なおやさん」との初デートがあった。
 
 
語呂合わせの巡り合わせ。言葉遊びが私の運命レベルで起こってるんだきっと。
 
 

「そしてあなたは何になるの?」

学問の世界に志が高いが故、学部では物足りず、大学院に進学したい。けれど周囲から「最終的に院に行っても何になるの?」と問われ、自分の気持ちに一歩踏み出せずにいる女の子から相談を受けた。きっと他にもそんな子はいるだろうし、私なりの解答を思いつくままにあげてみよう。少しでも、本人の気持ちに寄り添う形で背中を押せたらと思う。

 

まずこの問いについて。

「何になるのか?」という問いには「何かになる」ことが前提とされている。ここでいる「何か」は「社会的認可を有する一定水準以上の報酬を得られる職業」、分かりやすく言うと「飯が食っていける仕事」ってことだ。更に、ある程度の高学歴層であれば、「社会的名誉」「高収入」なんかの要素もプラスされる。

そのように、広く国民は「何者」(朝井リョウのそれに近い)かになることが求められていて、おそらくそれを他者に求める人間は「何者」かに既になっているか、そうなる十分な見込みがあるのだと思われる。

 

さて、皆に分かる「何者」かにならなきゃならないのか。「何者」かになってしさえすればそれで完結するのか。「何者」かにならなくては人は何もできないのか。

 

あとこれはもう完全なる個人的な偏見だけれども、こういう問いを他人にぶつける人は、そうすることで自分自身の正当性を認めたいがためそうしているに思う。その人たちからすると、自分は正しく道を歩み、今は働き、自分の手でお金を稼いで暮らしている。それが正しく社会にでることであり、勤勉で真面目に働くのが最も尊まれることだ、と。確かに、なんら間違ってない。しかし、厄介なのは、それを他者に押し付けることだ。「お前はいつまでも好きに学生やるなんて一体何になるんだ?こっちは真面目に働いて金稼いでんのに」「文系(もうこっから突っ込みたいけど)で研究なんかやって何のためになるんだ?」という妬み?も含まれているような気がする。

 

良いじゃないか、あなたは自分の幸福追求?か社会貢献のためかで今の人生がある。こっちだってそれと同じだ。あなたと人生に求める価値が違うだけさ。ね。あなたに理解されなくて当然か。

 

私の経験上の話であるが、本当に(社会的に本人的に)成功して充実している人間は、他者の(特に若い人への)志や行動にかなり寛容である。「何でもいいから自分の思うように、自分の意思で動いてみなさい」と、そんなメッセージを軽やかな笑顔を添えて届けてくれるものだ。カッコ良いオトナはな。

 

あとちょっと逸れた話。

今のところ社会は資本主義で、利潤を生むものが優位に立てる。学問でも「実学」という名の、利益を生む?研究が評価されるというのはある。シンプルに、金がすべて。けれどこの先、様々な科学技術や人工知能なりが発達し、人間が「働かなくて良い」社会が到来したらどうだろう(ホリエモンが得意そうな話)。働いて、稼げる奴が優れているという価値観は砕かれてしまう。だって、その必要性はもう人間はないのだもの。ベーシック・インカムもあるしね(やはりホリエモンの論に沿ってしまった)。その時に人々がどう生きるかって、やはり芸術であったり知的欲求を満たすものが必要なのではないかな。資本主義が崩壊し「娯楽主義」たるものが来るのでは。知的欲求を満たす為に新たな知的産物を生み出す。この繰り返しで、人間の存在意義を見出すのも一つの有力な生き方だと思う。

 

 

人のアドバイスは半分心に留めて、半分聞き流す。自分の人生は自分が責任をもって決めるべきもの。他人のアドバイスに従うとしよう。上手くいかない時、きっとあなたはそのアドバイスのせいにしてしまう。まあ、こんなに世の中変わってきているのだ、皆完全なる正解なんて持ってないよ。

 

 

ごちゃごちゃ書き出してみましたが、最後に一言。

 

 

”自分の思いに自信を持って”