仕事でミスばかりして落ち込んでいる君へ

 

残念だけれども、あまり落ち込むことは誰も得しない。

 

君はちゃんと反省したし、次は頑張ろうって思っている。

もうそれで十分だ、ちゃんと向き合えているよ。

 

でもさ、一番大事なのは健康に生きることなんだ。

これは天から与えられた使命だよ。上司なんかより偉いんだ。

 

だから今から君がやるべきことは

しっかりご飯食べて 身体動かして バカなこと言って笑って ぐっすり眠ることだ

 

少なくともさ、わたし一人くらいは君の味方だい。忘れたら怒っちゃうからね。

わたしはね、君の笑顔が一番好きさ。

女になったばかりの少女

わたしはずっと少女でいたかった

何も考えず走り回り、無邪気に笑う少女でいたかった

ずっと誰のものでもない自分でいたかった

 

あのとき

わたしはとっても泣いた

痛みに耐えられなかったのでもない 苦しみを味わったのでもない

 

悔しくて悔しくて泣いた

わたしは自分が空っぽになった気がした

削られて 削られて 奪われてしまったような感覚

 

少女が女になるとき 気づいてしまうのだ

女のわたしは すべて男の人のためなんだって

男の人によって女はつくられて 消費されるんだって

 

女のわたしはいつもいつも空っぽになる 

無になって 涙だけが頬をつたう

 

わたしはずっと少女でいたかった

女のわたしは 心が空っぽだ

 

君にありがとう

おはよう

こんにちは

こんばんは

 

また今日も君に会えたね。

 

わたしは、うれしいよ。

 

今日もこうして

君がわたしのことを気にかけてくれているってことだもんね。

 

きっとわたしは

君のことをもっと知りたいって思っているよ。

 

きっとわたしは

君ともっと話してみたいって思っているよ。

 

わたしは、うれしいよ。

 

また今日も君に会えたね。

 

明日も待っているよ。

 

 

 

 

 

消費される着物文化

観光客の増加に伴い、京都の街中ではあちこちでレンタル着物屋さんがOPENしている。

夏の季節である今であると、そこらじゅうに浴衣姿の人たちで溢れていて、キラキラしたような雰囲気が漂っている。

そんな光景を話していて、同級生の男の子が「タダで浴衣女子を見れるから得した気分になる」といったようなことを言っていたが、どうもわたしには納得のいかないところがある。

なぜって、どこをみても派手めな色合いで薄っぺらい生地、季節感のない花柄、作り帯…。決して和装をする上では美しいとは言えないような代物を身にまとっている子達がとても多い。(むしろ、その子自身の私服の方が似合って可愛いんじゃなかと思ったりもする)

最悪なパターンは、もう寒い時期なのに浴衣を着ていたりさえする。

 

結局、この一連のブームを支えているのは、「着物を着る」という行為自体への普及であって、決して「着物文化」が広まったからではない。

だって、あくまでレンタル着物店は着物文化を「消費財」として成り立たせているビジネスモデルでしかないのだから。

「着物を着る」という行為を供給するのに、「安く」「手軽に」「早く」といった需要を満たしているし、もっというと、「着物を着て可愛い」という状態に「わかりやすく」持っていっている。

 

この「わかりやすい可愛さ」というのは、最初に述べた花柄であったり、派手な色使いといったものだ。そのまま浴衣だけパッと見て可愛いと思える仕掛けだ。

でもよくよくその姿を見て欲しい。

 

若くて可愛らしい女の子が着ている賑やかで可愛らしい柄と色合いの浴衣は、かえって全体のバランスを悪くしていることが多い。

 

和装に限っては、「若い時ほど渋いモノ、年をとるほど可愛らしいモノ」が似合うのだ。それでも、「いや違う」というのなら、わたしは間違いなくあなたのセンスを疑う…

 

本来、柄一つとっても着物というものはその人の自己表現そのものになり得る。

例えば、わたしはこの間、水トンボの柄の白い涼し気な浴衣を着た。

トンボは、前しか見えず、後ろを振り向かない、前進していくようなところから「勝虫」といわれている。今のわたしの気持ちそのものである。

ただ、7月はちょっと早いかなあ、といったところ涼しさを入れるのに、薄い色に水トンボが丁度良い、といったところ。

帯を合わせるのでも、シックな青であれば落ち着いた印象になるし、ちょっと柄が付いた赤であれば粋な感じもする。着て行く場所、その時の気持ちでいくらでも合わせ方がある。

 

これ語り出すと長くなるので…これくらいにしておき…

 

さて、実際にレンタル着物店で浴衣を着ている人たちを見ると半数近くは外国人観光客が見受けられる。

わたしがとても残念に感じてしまうことが、その彼らが「日本のKIMONOってこんなものかあ」という印象を持って帰国してしまうことである。

きっと、暑苦しく身動きとりづらく厄介なモノといった印象の方が強いだろう。その隠された奥深さといったような日本らしさに触れることはないように思う。

 

そもそもだ。

 

日本人自体が着物文化を消費財にしてしまっていることを、どうにか改めたい。

せっかく、関心は継続されてというか高まってきているのだから…

 

街中には可愛らしい美しい女の子がたくさん溢れているのだし

 

彼女たちにはやはり、日本人としてのプライドを持って、着物を身にまとってほしいなあ、という思いがある。

 

お掃除の時間

私はお掃除が好きだ。
決して潔癖症ではないのだけれど、お掃除をしている時間は好き。
 
もし、一週間のうちにその時間が取れないと、心身ともにすっきりと日々を過ごせなくなってしまう。
だから、どんなに忙しくても、この時間はつくるようにしている。
 
お掃除をしている時間は、無心になれる。
 
私は目に見える汚れを拭ったり、
目に見えなかった汚れを見つけ出したりする。
ホコリを掃除機で吸い取ったり、
水回りや台所を磨いたりする。
 
毎日毎日、あんまり時間はとれないから
気になるところから手当たり次第、ちょっとずつやる。
 
こんな小さい作業を日々懲り返して、お部屋が気にならない程度に整頓されると
また一週間、前向きに過ごすことができる。
 
 
 
 
これって実は、私が社会に向けるモチベーションのそれとも一緒だと思う。
 
目につくことから、手当たり次第に綺麗に(汚れを元どおりに)させてていこうという志だ。
 
決して完璧にはできないけれど、せめてもの自分が生きる価値じゃないかって気がしている。
 
目の前の相手を悩ます汚れが見えたら、ちょっと拭いてみる。
そうでなくても、拭いてるうちにその布が黒く染まり、目の前に笑顔が現れていたりする。
 
こびりついた強力な油汚れなんかは、
たまに洗剤を変えたり、こするスポンジを変えてみする。
 
 
このお掃除は、そんなに特別なことではない。
何かかが思いっきり良くなったり、それまでの状態から大きく改革されることはまずない。
 
汚れが落ちて本来の姿に戻ったり、詰まりがとれてすっきりしたりする程度のものである。
 
でもね、このお掃除をサボってしまうと
気づかないうちに大きな汚れになって、取り除くにはもう手遅れになってしまう。
 
だから、ちょっとずつ手当たり次第に雑なお掃除を続けていかなきゃいけないんだ。
 
 
余談だけれど、私がお掃除をするもう一つの大事な目的がある。
 
それは、「客人をいつでも誰でも快く迎えるため」である。
 
私のお部屋はなぜか突然に訪れる人が多い。
 
でもやっぱり、この部屋jは「落ち着くなあ」と安心してくれると嬉しいし、
ちょっとお花を飾ったりするのは、歓迎の意を込めている。
 
日本社会だって同じ。
今や、海外からたくさんのお客様がやってくる。
 
できるなら気持ち良く迎え入れたいなあと思うよね。
 
これからも、私なりに雑なお掃除をちょっとずつ続けていこうと思う。
 
 
 

おねがいごと

 

家の前の商店街で短冊が置かれたいたのでおねがいごとを書くことにした

 

私はちっちゃい頃から自分の「おねがいごと」をするのがとっても苦手だった。

何もどうひねり出してもでてこないのだ。

特に欲しいものはないし なりたい自分もないし 叶えたい願望みたいなんもない

 

書かれたのをちらっとみると、

「彼女欲しい」「合格祈願」「商売繁盛」「お金持になる」「幸せな日々を手に入れたい」とかまあまあそんな類の。

 

う〜んでも、「おねがいごと」にするのはなんか違うなあ、とやっぱり思ってしまう。そこまで、自分に対し切に願うことって本当に思い浮かばない。

 

ようやっと「自分の周りくらい笑顔にできますように」と書いた。

私が生きているモチベーションて、結局これ以上でもこれ以下でもない。

 

親とか親戚とかに

「今日は好きなもの買ってあげるから、なんでもいいなさい」っていわれると

すぐ「なんも要らなあ〜い」「欲しいものない」て言って

「かわいくない」「欲のない子」と言われて続けてきた。今も変わらずに。

 

人におねだりが苦手で、結局知らずに自分で手に入れ続けた。

いやそんなのは全く嘘で、周りが私にどんどん与えてくれていた。

 

自分は特段美少女でスタイル抜群で何てことはない、いたって普通の容貌だし

とても頭が良い何てこともなく、ある分野での才能に優れていることもない。

 

けれど、出会ってきた人関わってきた人は

親戚知人友達恋人その他諸々の社会において、非常に優れた高い人間性を持った人たちばかりなのだ。

 

自分の唯一の自慢って、「人との巡り合わせ」の運の良さでしかなく

ほんとうにそれだけで、私自身の人間形成も人生設計もなされてきた。自分の実力なんて本当に、めっそうもない。

 

だからこそ、「おねがいごと」を書く時なんかはとっても躊躇してしまう。

 

今まで散々与えられてきたのに、これ以上高望んでしまったら何かバチが当たりそうで。

せめてものの、そんな私の身の周りの人たちを少しでも笑顔にできたらなあって、それくらいが望みでもあり、使命かなって。

今の研究だってアルバイト一つとったって、そう。

身の回りの人を笑顔にしたいというモチベーションだけのためであり、それがもう私の絶対的な信条。

 

今日も誰かの笑顔のために!なんて口に出したらめちゃめちゃくさいなあ。

 

でもそのために 小さくも前向きに生きて行くのだよ。

 

おねがいごとかなえよう。

 

 

いつだって他の誰か

私に好意を寄せる男性を目の前にして、私はいつだって他の誰かになることができる

 

ある時はかわいい女子大生

ある時は優しいお姉さん

ある時はエロい女

 

ここら辺はだいたい相手の要望を察して、限りなく100に近く演じられる

 

それだけでなく、私もまた好意を寄せるような相手であっても、相手にとって他の誰かである

 

ある時は初恋の人

ある時は初体験の相手

ある時はお母さん

 

私はいつだって目の前に他の誰かになることを求められてきたし

そうなりきれてしまう自分をとてもとても楽しんでいた

 

 

 

 

 

でも、もうそろそろ

私が私でいてもそう求められる生き方をしたいな、とも思い始めている