お掃除の時間

私はお掃除が好きだ。
決して潔癖症ではないのだけれど、お掃除をしている時間は好き。
 
もし、一週間のうちにその時間が取れないと、心身ともにすっきりと日々を過ごせなくなってしまう。
だから、どんなに忙しくても、この時間はつくるようにしている。
 
お掃除をしている時間は、無心になれる。
 
私は目に見える汚れを拭ったり、
目に見えなかった汚れを見つけ出したりする。
ホコリを掃除機で吸い取ったり、
水回りや台所を磨いたりする。
 
毎日毎日、あんまり時間はとれないから
気になるところから手当たり次第、ちょっとずつやる。
 
こんな小さい作業を日々懲り返して、お部屋が気にならない程度に整頓されると
また一週間、前向きに過ごすことができる。
 
 
 
 
これって実は、私が社会に向けるモチベーションのそれとも一緒だと思う。
 
目につくことから、手当たり次第に綺麗に(汚れを元どおりに)させてていこうという志だ。
 
決して完璧にはできないけれど、せめてもの自分が生きる価値じゃないかって気がしている。
 
目の前の相手を悩ます汚れが見えたら、ちょっと拭いてみる。
そうでなくても、拭いてるうちにその布が黒く染まり、目の前に笑顔が現れていたりする。
 
こびりついた強力な油汚れなんかは、
たまに洗剤を変えたり、こするスポンジを変えてみする。
 
 
このお掃除は、そんなに特別なことではない。
何かかが思いっきり良くなったり、それまでの状態から大きく改革されることはまずない。
 
汚れが落ちて本来の姿に戻ったり、詰まりがとれてすっきりしたりする程度のものである。
 
でもね、このお掃除をサボってしまうと
気づかないうちに大きな汚れになって、取り除くにはもう手遅れになってしまう。
 
だから、ちょっとずつ手当たり次第に雑なお掃除を続けていかなきゃいけないんだ。
 
 
余談だけれど、私がお掃除をするもう一つの大事な目的がある。
 
それは、「客人をいつでも誰でも快く迎えるため」である。
 
私のお部屋はなぜか突然に訪れる人が多い。
 
でもやっぱり、この部屋jは「落ち着くなあ」と安心してくれると嬉しいし、
ちょっとお花を飾ったりするのは、歓迎の意を込めている。
 
日本社会だって同じ。
今や、海外からたくさんのお客様がやってくる。
 
できるなら気持ち良く迎え入れたいなあと思うよね。
 
これからも、私なりに雑なお掃除をちょっとずつ続けていこうと思う。
 
 
 

おねがいごと

 

家の前の商店街で短冊が置かれたいたのでおねがいごとを書くことにした

 

私はちっちゃい頃から自分の「おねがいごと」をするのがとっても苦手だった。

何もどうひねり出してもでてこないのだ。

特に欲しいものはないし なりたい自分もないし 叶えたい願望みたいなんもない

 

書かれたのをちらっとみると、

「彼女欲しい」「合格祈願」「商売繁盛」「お金持になる」「幸せな日々を手に入れたい」とかまあまあそんな類の。

 

う〜んでも、「おねがいごと」にするのはなんか違うなあ、とやっぱり思ってしまう。そこまで、自分に対し切に願うことって本当に思い浮かばない。

 

ようやっと「自分の周りくらい笑顔にできますように」と書いた。

私が生きているモチベーションて、結局これ以上でもこれ以下でもない。

 

親とか親戚とかに

「今日は好きなもの買ってあげるから、なんでもいいなさい」っていわれると

すぐ「なんも要らなあ〜い」「欲しいものない」て言って

「かわいくない」「欲のない子」と言われて続けてきた。今も変わらずに。

 

人におねだりが苦手で、結局知らずに自分で手に入れ続けた。

いやそんなのは全く嘘で、周りが私にどんどん与えてくれていた。

 

自分は特段美少女でスタイル抜群で何てことはない、いたって普通の容貌だし

とても頭が良い何てこともなく、ある分野での才能に優れていることもない。

 

けれど、出会ってきた人関わってきた人は

親戚知人友達恋人その他諸々の社会において、非常に優れた高い人間性を持った人たちばかりなのだ。

 

自分の唯一の自慢って、「人との巡り合わせ」の運の良さでしかなく

ほんとうにそれだけで、私自身の人間形成も人生設計もなされてきた。自分の実力なんて本当に、めっそうもない。

 

だからこそ、「おねがいごと」を書く時なんかはとっても躊躇してしまう。

 

今まで散々与えられてきたのに、これ以上高望んでしまったら何かバチが当たりそうで。

せめてものの、そんな私の身の周りの人たちを少しでも笑顔にできたらなあって、それくらいが望みでもあり、使命かなって。

今の研究だってアルバイト一つとったって、そう。

身の回りの人を笑顔にしたいというモチベーションだけのためであり、それがもう私の絶対的な信条。

 

今日も誰かの笑顔のために!なんて口に出したらめちゃめちゃくさいなあ。

 

でもそのために 小さくも前向きに生きて行くのだよ。

 

おねがいごとかなえよう。

 

 

いつだって他の誰か

私に好意を寄せる男性を目の前にして、私はいつだって他の誰かになることができる

 

ある時はかわいい女子大生

ある時は優しいお姉さん

ある時はエロい女

 

ここら辺はだいたい相手の要望を察して、限りなく100に近く演じられる

 

それだけでなく、私もまた好意を寄せるような相手であっても、相手にとって他の誰かである

 

ある時は初恋の人

ある時は初体験の相手

ある時はお母さん

 

私はいつだって目の前に他の誰かになることを求められてきたし

そうなりきれてしまう自分をとてもとても楽しんでいた

 

 

 

 

 

でも、もうそろそろ

私が私でいてもそう求められる生き方をしたいな、とも思い始めている

 

 

 

 

 

お父さんのいびき

北国の寒い寒い冬の間
 
母は左、私は真ん中、父は右に、
 
私の家族は一つの温かいお部屋で、その名の通り川の字で寝る習慣があった。
 
 
私の父はとっても大きいいびきをかく人だった。
 
私と母は、ライオンが吠えてるみたいだってよく小馬鹿にして笑った。
 
そんな笑い声も本人の耳に届きやしない、大きないびきだった。
 
母はそれについてよく文句をいった。
 
けれど父は、毎晩毎晩大きないびきをかいていた。
 
 
 
無防備に解放された夜には、安心感と安らかな眠りが一緒だ。
 
私はそんな父を見て、今日も世の中が1日を無事に終えたんだって感じた。
 
 
 
この前の夜、私を腕に抱いた彼も、私の父に負けず劣らずの豪快ないびきをかいていた。
 
まったくもう、眠れたもんじゃない。
 
でも、そんな小さい不満がたまらなく懐かしかった。
 
今日も世の中が1日を無事に終えたんだって感じた。
 
 
いっぱい詰めこまれた頭ん中も、その身体も、ぜんぶぜんぶ丸裸にして。
 
 
私の横で、安らかにお眠りなさい。
 
 
 
 
 
 

赤ちゃんのチカラ

赤ちゃんを目にすると自然に微笑んでしまう。 

この世の中で、なんの見返りも求めず、笑顔を作れるのは赤ちゃんの存在だ。

 

どんなに難しい顔したおじさんも、中身のない会話好きな女子高生も、腰の弱ったお年寄りも、みんな赤ちゃんの前では良い笑顔になる。

 

圧倒的な弱者を前に人々は無力なんだ。

ちょっとの力で壊れることも傷つくことも本能レベルで知っている。

 

だから屈折のない無償の笑顔を向けることができるんだ。

 

友人関係・恋人関係にも 利害関係が付きまとう世の中だ。

 

無条件の笑顔と 無償の愛を向けられる相手って 赤ちゃんが最有力候補だと思う。

 

 

そんな文脈で、将来子どもを呆れるほどたくさん産もうってふと思ったんだ。

勉強をサボったらああなるのよ

先日、工事現場で働く方から、誰もが一度は経験する「現場あるある話」を聞いた。

 

小学生くらいの子を連れた母親は、汗水流し働く自分たちを指差して「勉強をサボったらああなるのよ、だから勉強しなさい」と、我が子に向かって諭すということがよくあるらしい。

 

幼な心に耳にする母親の言葉は絶対であり、少なからず子は母親に認められようと成長する。「何のために勉強するか」という問いには、いつしか「自分が社会の敗者にならないため」という絶対的な答えが正当化されてしまう。

なんて身勝手で傲慢な考え方なんだろうか。何しろ、自分を包摂している社会の基盤を真っ向から否定した上で、かつ他者から優位に立つこと、他者を排除することを正義としている。

 

自分たちが「社会に生かされている」ということをもっとよく知るべきであるし、母親は次世代を創造する子どもにそれを教える義務がある。

 

こういう親たちがいるからこそ、非人間的な頭でっかちが育ってしまうのだ。

コンビニ化する人たち

コンビニ化の批判ってたくさん出てきているし、その現象もとてもわかりやすい

 

早く 簡単に 気軽に 24時間 利用可能 

 

ここら辺を押さえておけば、もうそれはコンビニ化だとみなすことができよう。

 

例えば人とのコミュニケーションでは

 

直接会って話そうとすると

予定をあわせて ある程度じっくり時間を設けて 相手の顔を見ながら言葉を選んで会話をし 限られた時間と場所を選ばなくてはならない

 

でもLINEなんかであると

いつでもどこでも 相手の都合を考えずに 気軽に 短文のメッセージでやりとりができる なんてコンビニエンスなんだ と思う

 

でも私は自分自身もまた、コンビニ化してしまっていることに嫌悪感を覚えることがある。 

 

私は実質24時間気軽に連絡を取れ、要請を受ければすぐに出向くし、大概の仕事は即答で引き受ける。余計な干渉はしないし、軽い返事を出す。

 

相手にとってはとてもコンビニエンスな状態であるとは思う。

 

けれどもそれはある意味で消費財にもなりかねない。

 

だから本当に大事な相手に対しては便利さや手軽さよりも重みや充実さを持たすようにしようとつくづく思う。消費されるよりも重宝される人間こそが本来目指すべき姿かもしれない。