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「そしてあなたは何になるの?」

学問の世界に志が高いが故、学部では物足りず、大学院に進学したい。けれど周囲から「最終的に院に行っても何になるの?」と問われ、自分の気持ちに一歩踏み出せずにいる女の子から相談を受けた。きっと他にもそんな子はいるだろうし、私なりの解答を思いつくままにあげてみよう。少しでも、本人の気持ちに寄り添う形で背中を押せたらと思う。

 

まずこの問いについて。

「何になるのか?」という問いには「何かになる」ことが前提とされている。ここでいる「何か」は「社会的認可を有する一定水準以上の報酬を得られる職業」、分かりやすく言うと「飯が食っていける仕事」ってことだ。更に、ある程度の高学歴層であれば、「社会的名誉」「高収入」なんかの要素もプラスされる。

そのように、広く国民は「何者」(朝井リョウのそれに近い)かになることが求められていて、おそらくそれを他者に求める人間は「何者」かに既になっているか、そうなる十分な見込みがあるのだと思われる。

 

さて、皆に分かる「何者」かにならなきゃならないのか。「何者」かになってしさえすればそれで完結するのか。「何者」かにならなくては人は何もできないのか。

 

あとこれはもう完全なる個人的な偏見だけれども、こういう問いを他人にぶつける人は、そうすることで自分自身の正当性を認めたいがためそうしているに思う。その人たちからすると、自分は正しく道を歩み、今は働き、自分の手でお金を稼いで暮らしている。それが正しく社会にでることであり、勤勉で真面目に働くのが最も尊まれることだ、と。確かに、なんら間違ってない。しかし、厄介なのは、それを他者に押し付けることだ。「お前はいつまでも好きに学生やるなんて一体何になるんだ?こっちは真面目に働いて金稼いでんのに」「文系(もうこっから突っ込みたいけど)で研究なんかやって何のためになるんだ?」という妬み?も含まれているような気がする。

 

良いじゃないか、あなたは自分の幸福追求?か社会貢献のためかで今の人生がある。こっちだってそれと同じだ。あなたと人生に求める価値が違うだけさ。ね。あなたに理解されなくて当然か。

 

私の経験上の話であるが、本当に(社会的に本人的に)成功して充実している人間は、他者の(特に若い人への)志や行動にかなり寛容である。「何でもいいから自分の思うように、自分の意思で動いてみなさい」と、そんなメッセージを軽やかな笑顔を添えて届けてくれるものだ。カッコ良いオトナはな。

 

あとちょっと逸れた話。

今のところ社会は資本主義で、利潤を生むものが優位に立てる。学問でも「実学」という名の、利益を生む?研究が評価されるというのはある。シンプルに、金がすべて。けれどこの先、様々な科学技術や人工知能なりが発達し、人間が「働かなくて良い」社会が到来したらどうだろう(ホリエモンが得意そうな話)。働いて、稼げる奴が優れているという価値観は砕かれてしまう。だって、その必要性はもう人間はないのだもの。ベーシック・インカムもあるしね(やはりホリエモンの論に沿ってしまった)。その時に人々がどう生きるかって、やはり芸術であったり知的欲求を満たすものが必要なのではないかな。資本主義が崩壊し「娯楽主義」たるものが来るのでは。知的欲求を満たす為に新たな知的産物を生み出す。この繰り返しで、人間の存在意義を見出すのも一つの有力な生き方だと思う。

 

 

人のアドバイスは半分心に留めて、半分聞き流す。自分の人生は自分が責任をもって決めるべきもの。他人のアドバイスに従うとしよう。上手くいかない時、きっとあなたはそのアドバイスのせいにしてしまう。まあ、こんなに世の中変わってきているのだ、皆完全なる正解なんて持ってないよ。

 

 

ごちゃごちゃ書き出してみましたが、最後に一言。

 

 

”自分の思いに自信を持って”

「こうしなきゃいけない」という強迫観念

「GWは何してるの?何したの?」と聞かれると

「GWは何かしなきゃいけない」気になるし

 

「あの映画見た?どうだった?」と聞かれると

「何かのシーンに感動しなきゃいけない」気になるし

 

「趣味は何?休みの日はどう過ごすしてるの?」と聞かれると

「休みの日は趣味に没頭し、充実させなきゃいけない」気になるし

 

「何しているときが楽しい?」と聞かれると

「何かをすることによって楽しい自分でいないきゃいけない」気になるし

 

 

質問した相手の期待する回答をしようと試みると

自分の発した言葉がまるで誰か別の人が喋っているみたいになる

 

 

自分の回答探しをしようとすると

遊びの予定を立て、流行りの映画を見て、趣味を作って、楽しい自分探しをしなきゃならない。

 

 

 

 

さて、これらの回答はSNS上で採点します。いいね数があなたの点数ですよ、と。

 

真面目であること

真面目であることが正しくて

不真面目であることが正しくない

 

そのロジックはもうそろそろ限界

 

だからといって、不真面目であることがカッコ良いも違う

だからといって、真面目であることがカッコ良いも違う

 

そもそも、真面目か不真面目かを人間そのものを二分化で語ること自体がおかしい

 

「真面目だね」「真面目そう」の一言は恐ろしくも私を悩ませる。

 

綺麗なお姉さんと下品なおじさんの組み合わせ。

夜のスーパーにて。

 

手足がスラーっと長いモデルさんみたいな綺麗な外国人のお姉さんがいた。金髪が決して浮くことがない、目鼻立ちくっきりの顔立ちだ。使う日本語もまた上品。

 

その横でごちゃごちゃ小言を吐く男性。少しお酒が入っているのか、赤く染まる顔にシワが寄ったシャツ姿。はっきり何を言っているのか分からなくとも、汚い日本語を使っていることは伝わってくる。

 

レジに向かうカゴはお姉さんが持ち、その品々は全てそのおじさんが言いつけたもの。支払いはお姉さんが済ませ、袋に詰めるのもお姉さん。おじさんは荷物も持たずさっと先に店を出る。後を追うお姉さんの細い指には思い荷物が預けられ、二人は夜道に消えた。

 

人気のない路地に入り、おじさんはお姉さんの手をガチッと握る。

 

 

 

 

社会的な強者・弱者がそのまま現実に実在する(しているような)現場って、たいがい「見なかったもの」と無意識に位置付けられてるんだろうなあ。

 

人々の「日常」が、なんだって溶かしていくもの。

 

不信は何から生まれるか。

 

不信は何から生まれるかという答えはいたって簡単、「信じる」ことである。

 

「教育不信」に関して、広田の考えを借りるのならば、それらは皆「教育に過剰に期待し過ぎている」のだ。

 

学校教育は子どもに対してあらゆる手ほどきができる、と信じ込んでいるからこそ、できないことに関して強く当たるのだ。さらに言うと、教育に対し不満が多い人ほど、教育に対しの期待が大きいのだ。

 

別に教育だけの話ではない。

 

「男性不信」とかその類もそう。

 

男性に対し理想を掲げ過ぎていて、「男」の本来の部分が見えた瞬間に「男性不信」だというようになる場合が多い。逆も然り。

 

そうか、ならば「信じるな」と言っているわけではない。

不信感や不満の出発点を見つめ直して欲しいという意図である。

 

あたかも前提のようにあるものが、実は一方的な「思い込み」ではないか。

相手に不平不満を嘆く前に、まずは自分を振り返るのも必要な作業ではないかと私は思う。

 

広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊国屋書店、2005

また一つ明かりが消えたなら

 

夜の街は その寂しさを埋めるように 明かりを持たせなくてはならない

 

 

祇園花見小路通り沿いに「ミラノ」というお店があった

名前の通り、イタリアを思い浮かべさすような風貌

古びた店内 和製的な西洋を感じさせるふかふかの大きいソファ

時代に似つかわない雰囲気が 夜の街にはぴったりで

 

仕事を終えたきらびやかな女の子たちが集い

さっきまでお店で見せていた華やかな仮面を外し 一息つく

 

また1日仕事を終えた安堵感と 終わりが見えない世界に残る特有の虚しさ

 

それを気持ちばかり受け止めてくれる場所だった

 

 

けれども、その場所も昨年明かりを消してしまった

 

 

彼女たちに溜まる夜の余韻を 何処に沈めたら良いのだろう

 

また一つ明かりが消えたなら 暗さで 残された寂しさも 見えなくなってしまう

 

強いからこそ優しい

 

他人に対しての優しさをもってる人はそれだけ強さをもっている。

 

別に優柔不断で流されるわけでもない。

 

 

強さが前面に出ちゃってる人ほど、器が小さかったりする。

 

本当に優しい人は本当の強さをよく知っている。