ゴールデンスランバーっていい映画だったよね。

 大学近くのRINGOって要するにビートルズをモチーフにしたバーに今更ながら初めて行った。カクテルももちろん、曲名が用いられているわけで、私はすぐに「ゴールデンスランバー」にしようと決めた。目の前にいた先輩がそれを頼むと言い、思わず「私もです」と言った。単純に、響きが、良い。

 頭に真っ先に浮かぶのは、ビートルズの曲名よりも映画だった。私は何にしてもストーリーがどうだったかを考える癖があるのだが、あれは映画自体が良かった。つまり、ストーリーの中身が深いとかではない。テンポといい、臨場感といい、ちょうどその頃勢いに乗っていた堺雅人さんの表情が良いんだよな。ああゆう笑っている顔をしているのに、笑っていない人には好感を持てる。なんたって、私と仲間な気がするから。

 原作はおそらく読んでいなかったけれども、伊坂ワールドの世界をうまく体現しているということはよく分かる。ただしかし、何度も言うがストーリーはよく覚えていない。場面場面の印象が強く残っている。いい映画だったという記憶はある。

 ちょうどその目の前の先輩も同じことを思っていたらしい。あの映画は良い映画だったよねという話に自然に移った。そして、その先輩は映画それ自体よりも当時付き合っていた彼女とデートのことを思い浮かべていた。

 そういえば、付き合いたてのカップルが映画に行くのは話せない時間が長いからダメだとか、逆に沈黙を潰せるとかいいとかそんな話がある。確かに、映画デートってそれだけでデートの大部分が終わるし、見るまで良し悪しがわからないというリスクはある。あまりよくない内容だった時に、そのあとのムードが悪くなったりもする。私みたいにちょっと社会学をかじった人間は特に危険だ。どうしても人々が感動するものに対して批判的にみてしまうような職業病が発生してしまう。周りの女の子たちが泣いているような映画で、全くの反応を示さないと、女の子としては可愛気がないものだし、相手にも気を遣わさせてしまう。また、映画を見終えた後の食事をするときなんかに、何かうまい感想を言わなくてはならないかなとついつい考えてしまう。そう考えると、映画デートってなかなか緊張感があってリスクが高いよななんて私は感じてしまう。

 ただ一つ、良いことに気がついてしまった。私もそれなりに数多くの異性とデートをこなしてきたが、不思議と映画デートの記憶は全て残っている。もちろん、そのデート自体に深い感動もないことだって多い。けれども、映画を見ている時間だけは、非日常に誘導してくれる分、デートそれ自体よりもずっと意味を与えてくれているような気がする。

 そういえば、何の話だっけ。そうそう、ゴールデンスランバーってよく内容覚えていないけれども、いい映画だったよね。

 

自分を殺して生きることに精一杯だからさ

 ツイートでもブログ記事でも書いては消してを繰り返している。見返したときに、どれも自分の言葉に感じられなくなるのだ。人の目を気にしているからなのか、他の誰かになりすましたような自分が必ず存在する。そしてそれに少し慣れた私は、こういう話をしたらウケるということぐらいは分かってしまっている。個人間のやり取りでさえ、文を送ったそばから、他の誰かが私の代りに文字を打っている気分になる。違う、違うんだ。これは私の言葉じゃない。

 多方面に現れる自分に対するプライドが高い。客商売をやる以上、自分が一番客を呼べなくてはならない。お姉さんである以上、頼れるお姉さんであり続けたい。院生である以上、最低限の業績ぐらいは重ねないと研究者なんて名乗ってはならない。誰かが私をお母さんみたいだという、誰かが私を妹みたいだという、誰かが私を何でも話せる友人であるという。そういった役割期待に対応していくことが私のできることでもあり、得意なことでもあるのだとは思う。

 どの方面においてもちょっとうまくなってしまった。相手の求める私を察して先回りしてその私を提供することが下手ではない。そうするとどうなるかって、私は私の言葉を失いつつある。よくいえば、社会性を獲得するとはそういうことなのかもしれない。

 その一方で、自己肯定感なんてゼロどころかマイナスなのではないかとよく思う。そもそも私の自己はどこにあるのかという話だが、今まで何一つ誰かの為にできたことはないし、自分の努力で何かを達成できた試しもない。周りの人間はすごいよ本当に。私の愛情くらいでプラスに作用するのなら、無限に注いでいいと思う人間ばかりだ。私は他の誰かの役割を借りないと何一つ自分であることはできない。結局、私はこの世界のどこにもいやしないのだとも思う。私はいない。

 唯一私を見つけてくれたのは今の恋人だった。見つけてくれたのか見つけてくれたようなフリかは厳密には分からない、どっちでもいい。私がそう感じたこと自体に素晴らしく価値がある話だ。初めて出会った瞬間のあの衝撃はきっと、一生忘れないからもう十分だ。私の物語を書き続けている作家がいて、ちょっと流れに飽きて彼を私の目の前に登場させて化学反応のようなそれをみたくなったのだろう。超自然的である意味では、不自然な、そんなタイミングだった。

 この間、その彼が今まで交際した女の子の顔の話をしていた。要するにずっと似たような顔だということだ。そういえば、初めて会った頃も、初めて抱いた子と似ているとかそんなような話をしていた。そうか、似ているのか。納得した私はうまく言葉が出なかった。きっと過去の誰かの代りのほんの一片でも私は担っているのかもしれない。彼から見えているのは私そのものではなく、誰かに似ている私だ。そのように考えたら、幸か不幸か私の適職とでもいえてしまう。

 自己肯定感が著しく低い私が自己を維持できるのは、結局他の誰かの役割を担うことである。有能な保護者としてか、落ち着いたお姉さんとしてか、癒しを提供する媒体としてか、もうなんでもいい。役割さえ与えられたら、そこへ向かうプライドだけは高い。

 私はそうやって、相変わらず毎日自分を殺して殺して殺している。こんなんじゃその役割は十分に務まらないぞ、と。そう、私は自分を殺すことに精一杯で、私は毎日忙しいのだ。「忙しい」か、心も既に亡くしているのかもな。忙忙忙

 そうやって、自分を殺して強く生きねばならないんだよ。生き残りへの戦い。

 

一日を終わらせることもできないし、始めることもできない。

わたしだけが時間が機能しない世界に疎外されてしまった

わたしだけが取り残された

静かな場所で

 

口元で小さく呟いた言葉さえ響いてしまうから

誰もいないことがよくわかってしまう

 

わたしは何事もなかったかのように

静かに朝の訪れを待っているだけ

 

わたしは現実の世界に身を置きながら

何もない世界を秘密にして

何事もなかったかのように

 

わたしを置いてった人たちの背中を静かに見つめている

かわらないもの、かえられないもの

彼女が亡くなってからの私は、自分が見えている世界と自分が生きていることに対して自明性を失っていた。自宅に篭り続け、ただ時間が経って1日が終えるのを待っていたようだった。人が眠るべき時間に寝れなくなり、夜更かし、さらに長引き朝になってようやっと少し仮眠をとって、昼前に目覚め、またぼんやりと夕方と夜を迎え、何にもない時間の経過を追っていた。外が暗い時間はだいたい目に涙が浮かぶし、思考も回らなかった。部屋が散らかるようなこともしないし、また、片付けようともしない。時間の経過に取り残された私がいた。

ただ、「私以外」の「私の役割」は変わらず機能している。大学に出向けば「大久保さん」だし、学校の仕事に入れば「先生」であるし、りぼんに行ってお店に出れば「りぼんのはるかちゃん」だし、両親に顔を合わせれば、「一人娘の遥」であるし…友人として、恋人として、先輩後輩として…そこぞこの役割が与えられている限り、そのような大久保遥として生かされ続けている。そして、これは大変にありがたいことであった。おかげで、今日も変わらずに社会は動き続けているんだってことが、とてもよく分かった。そう、何があろうと何を思おうと、泣こうが笑おうが喚こうが、当たり前の顔して世界は動いている。

 

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かくれんぼ

 

わたしは小っちゃい頃、かくれんぼがとてつもなく得意だった。お友達みんな見つかって、見つかった子達のみんなでわたしを探しても、最後までわたしは見つからなかった。わたしはいつもおとなしく待っている。ほんの隙間から、真っ白い壁を見つめながら、じっとしている。わたしは見つけて欲しいのか、見つかりたくないのか、本当はよく分からない。でも最後の最後まで、自分からはでていかない。わたしはただひたすらに、オニに見つけてもらうのを待っている。わたしはきっと、見つからないために隠れているのじゃなくて、見つけてもらうために隠れている。でもわたしは本当に上手に隠れることができてしまう。誰もわたしを最初にはみつけることができない。

オトナになったわたしはあの頃のわたしよりも、もっとその腕を上げた。オニは、わたしが隠れているのかさえ気づかないことだってある。わたしは実に巧妙に、分かりづらく隠れることができるようになった。今でも、わたしを見つけて欲しいのか、隠しておきたいのかよく分からない。でも最後の最後まで、自分からはでていかない。わたしはただひたすらに、オニに見つけてもらうのを待っている。わたしはきっと、見つからないために隠れているのじゃなくて、見つけてもらうために隠れている。でもわたしは本当に上手に隠れることができてしまう。誰もわたしを最初にはみつけることができない。

わたしが長い間隠れているあいだに、オニもその腕を上げた。わたしはもう、オニが誰なのかを知らない。わたしには見えなくなってしまった。或いは、わたしはまだオニに出会ったことがないのかもしれない。わたしのオニはそこら中にたくさんいて、うじゃじゃさまよい歩いていることだけは、わたしには分かる。でも、ほとんどがオニでいることを辞めてしまう。或いは、降参を表明してわたしにもういい加減にでておいでって声をかけてくれる。でも最後の最後まで、自分からは出ていかない。わたしは今でもただひたすらに、オニに見つけてもらうのを待っている。本物のオニにね。

みさきへ

平成29年12月29日。私は京都から北海道の実家に帰省しており、その夜は長年の友人と久しぶりの再会の予定であった。しかし、その友人はその昼間に突如この世を去ってしまった。まるで私の帰りを待っていたかのようなタイミングであった。翌日からもう早速にお通夜・お葬式と続いた。私は告別式でのお手紙を頼まれていたが、到底書ききれる状態ではなかった。何か書こうとあれこれ思い出すと涙は止まらなくなるし、でも最後の役目は何としてでも果たしたいし…その葛藤の中でやっと書き出したものである。言葉は拙く、こんな限りで到底言い尽くせないことばかりであるが、私自身の忘れたくない記録としてここに残しておこうと思う。

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